平内のおいたち

更新日:2023年03月24日

4つの草の生えた盛り土の奥に海が広がっている写真

平内(ひらない)は、蝦夷語の「ピラナイ」が語源とされています。「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川の意で山と山の間の川が流れる土地」という語義があります。

平内地区は「平内郷」と呼ばれ、鎌倉時代から南北朝時代末までは南部領糠部郡に所属し、永享年間には津軽田舎郡の所領となりました。

元亀・天正の頃に七戸隼人という人が、現在の福館に城を築いて平内郷一帯を支配しましたが、津軽為信公の外ヶ浜(現在の東青地区)討平の際、軍門に降り津軽領となりました。

草の生えた盛り土の手前に説明看板が建っている写真

明暦2年(1656)に津軽十郎衛門信英が平内郷を賜り黒石領になった際、小湊に役所を開き、東は狩場沢、西は土屋に関所を設けました。しかし、津軽・南部両藩の境界についての紛争が絶えなかったため、両藩協議の末、馬門・狩場沢の中間の小川を挟んで東西に相対峙する丘を各々2個築いて境界標としました。これが通称「四ッ森」と呼ばれる藩境塚で写真のように現在も残っています。

2つの木碑の奥に海が広がっている写真

明治4年(1871)の廃藩置県で、青森第一大区、七小区に編入され、平内村の呼称小湊に戸長役場がおかれました。明治22年の村制が布かれて東平内、中平内、西平内の3村に分かれましたが、昭和3年、中平内は小湊町として町制を布きました。

昭和30年3月31日、町村合併促進法にもとづいて3町村が合併して、町名を歴史的に意義深い平内町として現在に至っています。

左写真「津軽・南部藩境塚(四ツ森)」

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの情報は役に立ちましたか?
このページの情報は見つけやすかったですか?